「クロード様、どうか……どうか我が領地を救うお知恵を! 領民は飢え、特産品もなく、あるのあるのは古ぼけた川と、湿気て苔むした石橋だけなのです……!」
ポルナレフ男爵は、クロードの机にしがみつき、比喩ではなく滝のような涙を流していた。
あまりの勢いに、クロードが大切にしていた魔導書の表紙に飛沫が飛びそうになる。
クロードは内心で深いため息をついた。
(またこのパターンか……)
世間では「若き天才」「歩く黄金律」などと持て囃されているが、本人からすれば笑えない冗談だった。
これまでの成功はすべて、驚異的なまでの運の良さと、周囲の勝手な深読みが招いた「事故」に過ぎない。自分には領地経営の知識などひとかけらもなく、今はただ、自分の身体を蝕む「呪い」の解析を進めたいだけなのだ。
だが、ここで無下に追い返せば男爵はさらに騒ぐだろう。クロードは極めて穏やかな、慈愛に満ちた笑みを浮かべて口を開いた。
「落ち着いてください、男爵。あなたの苦労はよく分かっています。……ああ、そんなに泣かないで。綺麗な服が台無しですよ」
声音はどこまでも優しく、包容力に満ちていた。しかしその脳内では、『どうやって最短でこの男を部屋からつまみ出すか』という演算だけがフル回転している。
「……そうですか、石橋ですか。……ああ、それならいっそ、その橋を全部ピンク色に塗ってみてはどうでしょう?」
「……は? ピンク、ですか?」
男爵が呆然と目を見開く。クロードは、さも「深い意味がある」と言いたげに、人差し指を唇に当てて思わせぶりに微笑んだ。
「ええ。ショッキングピンクだ。それも、遠目から見たら目が潰れるような、おぞましいほど鮮烈なやつがいい。それから、その橋の上で愛を誓うと『一生離れられない』っていう噂を流しておいてください。……いいですね?」
クロードの本音はこうだ。
(ピンクなんて悪趣味な色に塗れば、誰もが失笑して近寄らなくなるだろう。そうすれば、橋の老朽化による事故も減るし、何より「あいつのアドバイスはデタラメだ」と広まって、二度と厄介事が持ち込まれなくなるはずだ)
「一生離れられない」というのも、単なる嫌がらせだ。一度渡ったら二度と解放されない呪いの橋。そんな不吉な噂があれば、観光客どころかネズミ一匹通らなくなるに違いない。
「……じゃ、僕は呪いの研究……あ、いえ、精霊との対話で忙しいので。吉報を待っていますよ」
クロードは優しく男爵の背中を押し、部屋の外へと送り出した。
扉を閉めた瞬間、彼はどっと椅子に崩れ落ちる。
「……これでいい。あんな滅茶苦茶な助言、まともな人間なら実行するはずがないし、したところで大失敗して終わる。ようやく静かになるぞ」
彼は満足げに魔導書の続きを開いた。 自分の放ったデタラメが、一ヶ月後に王国経済を揺るがす「ピンクの狂気」へと変貌することなど、微塵も疑わずに。
*
クロードが静寂を享受していたのも束の間、一ヶ月後、彼の研究室の扉は文字通り叩き壊さんばかりの勢いで開け放たれた。
現れたのは、もはや人間というよりは「歩く巨大な桃」と化したポルナレフ男爵だった。最高級のシルクをこれでもかとショッキングピンクに染め上げた特注のスーツに身を包み、男爵は眩いばかりの光を放ちながらクロードの足元に滑り込んできた。
「クロード様ッ! あなたは、あなた様は人類の至宝だ!!」
窓の外を確認したクロードは、現実を疑い目を細めた。
遠く離れたはずのポルナレフ領の方角から、空を不気味に染める謎のピンク色の光柱が立ち上っていたからだ。それは夕焼けなどではなく、男爵が塗りつぶした石橋が、あまりの鮮やかさに太陽光を反射し、大気そのものを変色させていた。
男爵の行動力は、クロードの想定した「常識」を遥かに凌駕していた。
男爵は王国中のピンク染料を強引に買い占めて橋を塗り上げた結果、その橋は荒野の中に突如として現れる異次元の裂け目のような視覚的インパクトを放ち始めた。
この「視認性の暴力」は意外な効果を生む。迷子になりやすい旅人や、夜間の航路に難儀していた飛竜乗りたちが、「あのピンクを目指せば死なない」という身も蓋もない理由で、磁石に吸い寄せられる鉄屑のようにその地を目指して殺到したのである。
さらに、クロードが嫌がらせで言った「一生離れられない」という呪いの噂は、男爵の異常なまでのポジティブ・シンキングによって劇的な昇華を遂げていた。
男爵はそれを「たとえ死が二人を分かとうとも、運命の鎖で魂を縛り上げる至高の愛の証明」と勝手に再定義。この重すぎる解釈が、愛に飢えた貴族令嬢や、関係の冷え込みを恐れるカップルたちの琴線に激しく触れた。
橋の上では連日、逃げようとする婚約者の足に特製のピンクの鎖を繋いで愛を誓う「狂乱の参拝列」が数キロにわたって伸び続けるという、地獄のような、あるいは多幸感に満ちた光景が日常となった。
男爵の商才——という名の狂気はそれだけに留まらない。
橋のペンキの塗り替えで出たカスを「愛の結晶」として小瓶に詰めて高値で売り出し、さらには橋と同じ色の、飲むと視界がチカチカするほど不自然なピンク色の葡萄酒を「恋の病の特効薬」として販売。これが「飲むと理性が飛んで本音が出る」と大評判になり、男爵家の金庫は一晩で溢れかえった。
「クロード様……! 王都の商工会からは、すべての街灯をピンクにすべきだという陳情書が届いております! これもすべて、先生が計算されていた『色彩による民衆心理の掌握術』の成果ですね!」
男爵が感涙にむせびながら足元にひざまずく。
クロードは引き攣った笑顔を浮かべながら、必死に思考を巡らせた。
―――おかしい、絶対に何かがおかしい。
自分はただ、適当なことを言って追い払っただけなのだ。どうしてピンクに塗っただけで経済が回り、男爵が王国屈指の資産家になっているのか。この世界の人間は全員、頭のネジが数本飛んでいるのではないか。
しかし、彼が混乱のあまり沈黙すればするほど、男爵の目は崇拝の色を深めていく。クロードは喉まで出かかった「ただの偶然だ」という言葉を飲み込み、優しく、どこまでも穏やかな聖者の微笑みを作った。
「……ああ、いや。喜んでもらえて何よりです。すべては、男爵、あなたの努力の結果ですよ」
「おおお……! この功績を自分のものとせず、私のような凡庸な男を立ててくださるとは! なんという慈悲、なんという謙虚さ!」
男爵は号泣しながら部屋を飛び出していった。
おそらく明日には「聖者クロード、無欲の極み」という新しい伝説がさらに尾鰭をつけて広まるだろう。
クロードは震える手で、読みかけの魔導書を閉じた。もはや、自分の呪いの研究どころではない。
彼が「適当」を重ねれば重ねるほど、世界は加速度的に彼の望まない方向へと、眩いばかりの正解を捏造していくのだった。
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